認知症の母の息子の死。。
父親が二階から落ちてその日、フトンを一階に降ろし、母親との一階での生活がはじまりました。
どうやら、夜にトイレに行くため階段の一番上から足を踏み外したとのこと。
病院でのレントゲン結果も異状はなく、軽い打撲て済んだのは不幸中の幸いでした。
離れて済んでいる義兄や介護センターの方も心配して駆けつけてくれましたが本人はケロッとしていたのを思いだします。
父親はもともと植木職人で、それまでも木の上から何度も落ちたり、電車から降りる際にプラットフォームに顔から転んだりしていて入院を繰り返していました。
それからでしょうか、父親の言葉がどうも正常ではないことに気が付いたのです。
自分で話すのですが、突然話の内容と違うことを話したり、大きな声を上げたりしたのです。私たちは「おかしい!」と思いつつも、病院へ行くこともなくそのままにして家に帰りました。
それから1年くらい経ったころでしょうか、今度は両親の息子(義兄)が胸や背中の痛みを訴えたのです。
義兄は私と同年で、両親とは50㎞ほど離れて暮らしていました。家族構成は嫁と子供二人の4人家族です。
義兄は「肋間神経痛」だろと、湿布をして商売をしていましたが、ついには足に痛みが走り、1人で立つこともできない状態となったのです。
「おかしい!」と思った義兄は嫁に病院へ電話をするように言ったのです。
その結果「脊髄に癌がある」との診断でした。癌がある場所が脊髄なので手術をするのが難しく、放射線治療に専念したのです。
それからはご周知のとおり、抗ガン治療がはじまりました。
私たちは週一ごとに両親と4人でお見舞いに行きましたが、医者から告げられたのは余命2ヶ月。普通の病棟から緩和病棟に移され、治療はせずに痛みだけをケアする毎日が続きました。
我慢強い義兄でしたが、ついに我慢の限界を感じ、自分から「もう逝きたい・・・」と言ったのです。そんな連絡が病院から入ったので私たちは4人で病院へ急いだのです。
それまでも医師から患者が「逝きたい」と言ったらどうしますか?と、打診をされていたのですがこんなに早くなるとは思ってもいませんでしたので、心配しながら病院へ急ぎました。
車で約1時間半の距離ですが、その道中、義兄から携帯に電話が入り両親と最後の会話ができました。病院に到着して病室に急ぐと義兄はもう天国に旅立ったあとでした。
今思えば、携帯電話のおかげで義兄と両親の最後の会話ができたことは嬉しく感じます。私たちも電話を代わり、「両親のことは心配しないで!」と言うのが精いっぱいでした。
義兄にしてみれば、残された嫁や二人の子供、そして両親のことを思うと死ぬに死にきれないことだったでしょう。
60歳の若さで逝った義兄。
昨年7回忌の法要も終わりましたが、月日の経つのは早いものです。